出会い > 眼鏡のアイビイ |東京都世田谷区|下高井戸商店街

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出会い


人は生まれた時から、様々な人や物、出来事に出会います。その人だけの出会いで、その人だけの人生が形作られます。
出会ったものを自分の中で、どのように育むか。何を選んで何から選ばれて自分の人生となるのか。
生命は自然の営みの一部。木や草が自然の中に在ること。太陽や月。雨や日照り。地震や火山の爆発。
それらと密接に関わりをもって、自然の只中に生きる人間。毎日が出会い。毎日が新しい。
出会いによって変化をしていく自然体である人間の、生きている歴史を残したいと考えています。











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・2010年夏、私にとっては忙しかった8月。お盆の初日に信州へ行った。
新幹線は満席の車両の通路に、他の乗客と1列に並んで立ち通しで行った。 
この時期の列車は当たりまえに混むということなのだ。
予想はしていたが、ただふらりと、そこへは向いたかったのだ。
美術館で待ち合わせをした。
ノリコさんが、プラリプラリと竹籠を手に提げてこちらに歩いてきた。
「あらまぁ、遠路をよく来て下さいました。」といつもの笑顔で私を迎えてくれた。
特別なお付き合いをしていた訳ではないが、折々に心を掛けて下さる方なのだ。
年末には正月用にと水仙を届けてくれる。珍しいじゃが芋や庭で獲れる夏みかんだったりと
美しい季節の物を心配りしてくださる方だ。
昨年亡くなった私の父は、ノリコさんのご両親とも親しかったし、ノリコさんんとお話をするのを
とても楽しんでいた。そんなこともあって、夏が来る前に、私に声をかけて下さったのだろう。
「今年も行ってこようと思っているのよ。時間があったらお立ち寄りください。」
何気なくそう語り、1枚の住所を書いたメモを私に手渡してくれた。
その1枚の紙に導かれて、私は彼の地を訪れることになったのだ。

築80年の茅葺屋根の古民家。
8年という年月をかけて茅の葺き替えを終えたばかりだと聞いてはいたが、揺るがし難い存在感である。
材料の茅を一度には集められないことや費用の問題もあって、部分の修理を続けながら、8年という年月
がかかったのだという。時間をかけて茅を集めること。庭の草取り。自然の姿を守るための日々の手入れ
に係わるということは、代価には換算できない人の労力と気遣いが費やされている。

侘び寂の風ではあるが、独特な厳しさがある。
恐ろしさを携えて何かに対して威嚇しているような、警戒しているようにも映る景色。
他と一線を画く風体は、何がしかの多くを物語っていることに間違いは無いような確信を、私は密かに覚えた。ノリコさんはこの家を魂の器という。魂の入れ物だという。
自然の只中で自然の変化と向き合う学びの場であるようだ。

ノリコさんが東京に戻るのを待って、ご自宅にお邪魔をしたいと申し出た。
20年くらい前のその辺りの記憶は、広い敷地全体に緑が深く、自然のあるがままの手入れを心がけて
いるのが伺える贅沢な空間だった。
去年の夏は異常な暑さで、9月の半ば過ぎまでそれは続いた。
ノリコさんの帰京を待って、初めてこの家を訪れたのは9月の末頃だったと思う。

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門扉を開けて迎えてくれるのは、連なる大きな丸い石。不思議な踏み石。
尋ねると、ノリコさんは文章にして教えてくれた。

砥石の話
製材用の鋸(のこぎり)を作る工程で使われるものです。
中心に開いている穴に芯棒を通し、何枚も重ねてある砥石の間に、鋼の円盤状の鋸をはさみ込み、
回転させ磨きます。その後、W歯型をつけカッターとなります。踏石になっているのは、機械にかからなくなったすり減ったもの・・・と承知していますが、廃棄利用に母が工場から運んでもらったもので、
別荘の庭には、大寸法をテーブルに、小寸法を椅子代わりに使い、テーブルの中心の穴に釜飯の釜を
使って灰皿にしていました。昔はそこでバーベキューを楽しんだり朝食をとったりしていました







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地面の土。画策した訳ではないそうだが、踏石の高さが、雨や雪の日の足元の助けになっている。























大型湯沸しの換気用の煙突。台所からの煙突が懐かしい。





















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玄関から入って部屋のドアを開ける。一歩踏み出す足元の床板が黒光りをしている。
ここが計算された木尽くしの空間であることが瞬間に五感に伝わる。
大きな窓から庭の見える居間に落ち着く。
戸外の自然の樹木と室内の建材は活かされ方が違っている。
ノリコさんは林業に関わってきた家の三代目にあたる。
35年前にノリコさん自身の設計で、一人の大工と建てた家だそうだ。一対一の仕事。
施主であるノリコさんの意思と、大工の技が組合って、隙の無いただならぬ雰囲気が漂っている。

居間の中心にある長方形の木のテーブル。
その回りには丸椅子や変った形の小さな腰掛、ロッキングチェアーがほどよい間隔で置かれていて室内の空間を自由に過せるように気配りがされている。

数点ある椅子のどれに座ろうか、私は少し思案した。
都合の良さそうな椅子に腰を落ち着かせてあらためて周りを見渡した。
西側にある雪見障子の窓に目がいった。



















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障子の向こうには網戸があり、網戸の外に葦簀(よしず)がかかっている。
午後3時過ぎ、西日が差し込んで外の木々の様子がフィルターをかけたようなシルエットになり
揺れて写っている。
静寂な室内。光の中、木々(建材)が人と一緒に息をしているような雰囲気がする。
そんな気配にハッとさせられる瞬間がある。
陽の光が、来客のように、室内の温度を上げて息使いをしているようにも感じる。
雪見は季節によって高さのバランスを変える。
西日の差し込む角度が時間を刻む部屋の中。ノリコさんのお気に入りの場所。
   心あらむ人に見せばや津の国の 難波わたりの春のけしきを  能因法師
裏庭に3月頃から一面に咲く白いハナニラが、窓越しに揺れて写る姿が幻想的なそうだ。



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天井が斜めになっていることに気がつく。心地よい違和感がある。





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天井に材木が埋められている。
家を建てた時に、普通寸法の太さの柱を用意していたが、途中で太い寸法の物に変えたために、
余った普通寸法の柱を、飾りとして、天井に等間隔に埋め込んだのだ。
「工事の途中で決まったの。無駄な物よね。」ノリコさんは屈託無く笑う。
今となっては、強度を補う支えの役目になっているようだ。
しかし、この斜めの天井のおかげで、ある錯覚を抱いてしまう。
雪見障子の右側には、格子の大きな障子に仕切られた寝室がある。
その障子部屋の上り口に式台が設えてある。左側のガラス窓の外は庭。
大きな障子を開けて部屋の中から見ると、この居間は、庭の一部、戸外として見立ててあるのではないのか。人間の生活空間と、自然界への緩やかな変化への序奏のための、あいまいな境界として、
この居間が戸外のように設えてあるではないかと思えてしまうのだ。

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謡の本を納める桐の本棚を、友人が要らないので処分しようとしていた。
作りの良い桐箱で、もったいないので連れて帰ってきた。それを眺めていて、この桐箱の納まりの良い家をつくったらどうだろうかと考えるようになった。それまでに集めた小物達と合わせて、調和させていくにはどうしたらいいかを考えながら、建築に挑んだのがこの家を建てる動機だった。ストーブの置いてあるところに桐箱は置いていたが、求める人がいて今は人の手に渡り大事に活かされている。昨日のことのように鮮明にノリコさんは話してくれる。

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薄暗い室内に灯されているランプが一つ。
そのランプにモビールがかけられている。私はそれが一番気になっている。
何の形でどんな素材なのか。ランプの灯りと自然光の中を、巧みに空間を浮遊している。


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椅子やクッション、敷物は、人を抱くように包み込むように、そこには用意されている。




















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庭に向いている背の高いガラス窓。窓枠の木の作りは、厚みがあって手触りがよい。
昔はみんなこんな作りだった。セパレートになっていて足元は曇りガラス。
生活をよりよくするための配慮(エコ)がここにも充分に感じられる。

以前は、夏場に下の窓を開けておくことだけで冷気が保たれ、寝苦しい夜の暑さも解消されたが、
南前面に建てられた巨大アパートのために、多量の樹が切られ、地面を石詰めにした結果、
日没後も放熱により戸外の温度が2℃くらい上がってしまい、現在は開放ができなくなってしまった。







鶴と灯篭    ノリコさんの話
昔、母屋の庭に空池(からいけ)という水のない池があり、そこに置かれた五羽のセットの中の一羽。
五羽はそれぞれ違う動きをしていました。
庭園に関わる企画があった時に頼まれて貸し出したのですが、三羽が行方不明、二羽だけもどって
来ました。組立式だったので部品(ネジ止め)や足先を失くされ、かろうじてあの一羽だけが立てる
状態でした。ただ、足の指部分が無く地面に埋めてあるので、身長が縮んでいます。
灯篭は、近所で作業をしていた解体屋さんが、豊玉の方の古い家を壊す時、庭にあった廃処分対象
だったこの灯篭を、捨てられないので引き取ってもらえたら有難いと申し出があり里子にしました。



















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壁の漆喰の黄色。白ではないのです。









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写真 Takashi Nakagawa
墨絵のようなもの。僅かにカラーと解かる色彩がある。
朝なのか夕なのか。日輪に向かってうねうねと道が続く。ここはトルコ。
アレキサンダー大王は十万の大軍を率いて直線進行を常とした遠征をした。
道の目指しているものとは、ある種の曖昧なもの。

指輪物語の中で大きな仕事を終えたフロドの言葉がある。
「明るい昼が終わって 目路はおぼろだが 私の前には長い旅がある さらば友よ
 あの呼び声が聞こえるのだ。」
風景はこの写真の中に一致している。60歳になった時に、生き方への方向付けとして買ったもの。
                             ノリコさん談


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カイバル峠へ向かう道の途中で石の上に腰をおろす。そこはなだらかな丘陵地帯。
風を感じながらただぼんやりと、その空間に身を置いた。
風の中に音が聞こえる。なんだろうこの音?
耳を澄ます。空風だろうか。
遠くに小さな点が見える。羊の群れがだんだんと見えてくる。鈴の音だ。
この空間の広さと幅と深さ。詰まっているけれどまだまだ一杯詰め込めるのだ。
存在するけれど眼には見えない、歴史の道にあった人間の心。歴史の凝縮された場所に立つ。

般若心経が浮かんだ 
  とらわれないこころ かたよらないこころ こだわらないこころ
  ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり   高田光胤 
空とは 空しさ虚しさではなくて 入っても入ってもまだ入る  限界が無いもの
これからの自分の生き方を支えてくれる出来事だった          

 ノリコさん談 



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障子の向こうとこちらの世界の境界。式台には腰が掛けられる。本を積む。花を飾る。休息の場。「手漉きの和紙が高価になり、職人が貼る機会を失ってしまった。良い腕を持つ人たちの出番がない。手漉きの和紙を思う存分に貼れる大格子の障子を作ってみた。使い続けることで唯一の贅沢をさせてもらっている。」ノリコさんは苦笑いをする


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障子紙の中に・・・


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破けてしまった障子紙。今にも雁の音が聞こえてきそう。


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部屋の隅っこ。
建具と漆喰と和紙とコンセント。最低限それがあれば充足が得られる。
美しく丁寧に整っている。



















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雪見障子とは相対している場所。扉の向こうは台所。
右端の扉は一枚板。木目が鮮やかで大胆な表情を出している。
中央はシステムキッチンのように部屋の向こうとこちらで使える食器棚と引き出し。
シンプルで実に機能的。北欧家具のイメージがする。



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天井の斜めがこの部屋の要。驚きがあり胸騒ぎを感じる。
見上げると当たり前じゃないのだという刺激がある。予期せぬ出来事が人には刺激になる



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家と自分の一体感。
時間が経てば経つほどに関係が濃密になってくるのではないだろうか。
最初の10年くらいは、雨の降る前、乾燥した時、冬は湿度の変化で柱が音を鳴らした。
ピキッピキッ。
木が呼吸する声を聞きながら暮らすということは、荒々しくならなくて済むのではないか。
かつて命のあった物との共鳴をしているようで、立ち止まらせてくれる。
人間は立ち止まる立場にある者ではないのかと思う。
釘を一本打つのにどれほど悩むか。ある日、打ち場所が決まる。
「ここ、いいかしら?」何度も問いかける。「ちょっと痛いよ。ごめんね。」
そんな暮らしなのよ。ノリコさんは慎重に話してくれるけれど、最後はいつも笑っている。
誰とも何処とも知れない、
森羅万象への畏敬の念を、部屋の中であたり前に実感してしまう場所。






















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この部屋の奥がノリコさんの書斎。天井板から分かるように小さく仕切られた空間です。
天井にある2つの白い枠は埋め込み照明。手元用には間接照明を使っている。
ここに居ると、家の中の明るさというものを考えさせられる。
明るさは大事で、合理的で便利だけれど、休息ということからは遠いのだという明白なことでさえ、
明るさの中の暮らしでは、見えないように、感じられないようになっているのかも知れない。
不安というものを取り除いた生活が、人を情緒不安定にしてしまうのではないかと閃く。

ほどほどの明るさの中だけれど、建材はみんなピカピカとしている。その照り返しが眩しいくらい



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懐かしい呼び鈴の電話にノリコさんが出た。ダイヤル式の黒電話。
玩具かと思うほど実生活から姿を消した物。ここでは現役だ。
時々掛ける電話の声が心なしか鮮明に聴こえる。デジタルとは違うらしい。
電話中のノリコさんの向こうに30歳代のノリコさんが居る。
自分の写真を部屋に飾る。その時の自分が、今の自分を支えてくれている。
戒めであり誇りでもあり、郷愁でもある。勇気と明日の糧のよう。
済んできた自分を見つめることは大事なこと。

写真の右側に木製のドアノブが見える。ここを開けると玄関。

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書斎と居間の境界に出雲の藍染暖簾が掛けられている。
緋鯉と真鯉が泳いでいる。
季節によって掛け替える。1枚の織物で部屋の明るさを調整しているようだ。
























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鯉暖簾の裏側にピアノが置かれている。
CAROL OTTO 製造番号から1900年初めのころのドイツ・ベルリン生まれ。
戦後の混乱期、持ち主であった調律師の方が手放さなければならなくなり、
ノリコさんのお母様が譲り受けたもの。それをノリコさんが受け継いだ。
特徴のある共鳴板を使っていて、平成16年ころ、1年余りをかけて大阪で修復をしてもらった。
100年以上の旅を経た雄姿。月並みですが、すごく魅力的で素敵です。




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音楽関係の知人達によって奏でられる特徴のある音色は、室内の木々に共鳴し、余韻となって、その夜はこの部屋に留まる。黒檀と象牙の鍵盤を指先が踏み込む。重圧感があって軽やかさを伴う。
不思議にそれは同時に伝わってくる。文化は余韻そのもの。
アナログの世界。それをデジタルに置き換えるとデーターが膨大になって全ての音が拾えないだろう。
螺鈿の細工が秀逸。






















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屋根の雨樋の水を地下へ流してくれるグレーのビニール排水菅。
はじめはそれに巻きついていた草。
ある日、笹団子に結わいてある紐をたらしておいたら、草はその細い紐にグングン巻きついて登って行った。
素直で素朴な植物だ。


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写真の手前の赤い実は千両。10月の末に撮ったもの。
2月の末ころ、ヒヨドリの糧になって赤い実は無くなっていた。
裏庭の南天の実は10月にはすでに食べられていた。
裏庭には柿の木があって、枝に実のヘタだけが残されている。
カラスが実を啄んで皮だけになったものが無造作に地面に落ちている。
雪の降るころ、水に濡れた柿のヘタの裏側を、鳥が啄みに来る。
僅かに乾燥して残っている実が、濡れて柔らかくなっているものを食べるのだ。



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夏みかんの木。かつて母屋の北側の玄関にあったもの。
相続で庭の仕切りをされた時にこちら側に入っていた。
夏みかんの木によって人脈ができた。自分を守ってくれていて心の支えになっている。

この写真(10月末)の頃の皮の緑色が、3月の今は黄色味が一段と濃くなっている。
2月の末ころから収穫が始まり、雪の残る新潟に送られ、ジャムに加工されている。
この時期は酸味が強く皮がしっかりとしているので、マーマレードジャムにするのに都合が良いのだそうだ。
敷地内には4本の夏みかんの木があり、昨年の収穫量は1トン近くにまでなった。
4月の終わり頃が完熟期で美味しい濃くと甘さもある。その頃の酸味は身体の芯に沁み入るのだそう。




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これは10月末。庭に咲いていた2種類の花のうちの一つ。ホトトギス。
裏庭では新しい同居者だ。紫から水色に変化を見せる花弁が好きで、5~6年前に苗を買った。
ギリシャ語でトリキルティス(Tricyrtis)「treis(三)+kyrtos(曲)」が語源。
切り花で売っているのは元気ハツラツな花弁がえび茶色で厚手。それは野草とはほど遠い。










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草むらの中で秋の訪れの赤い落ち葉の横にポツンと1輪咲く花。サフラン。
知らない間にここに咲いていた。春に咲くクロッカスに似ている。
花弁から垂れているめしべである赤いひも状のものを乾燥させて生薬や香辛料にする。








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花びらは、陽の光を取り込みやすい形になっているようだ。
光の恵みを包み込んでめしべを育てている。
可憐で健気に映る。




















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指輪物語の指輪の魔力。人は人の関わる魔力の秤にかけられている。
フィンランド製の銅製。飛び続ける鳥のようなもの





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古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、アレキサンダー大王が大勢の供を連れて挨拶に来た時に、何か希望はないかと聞かれて、「貴方にそこに立たれると日陰になるからどいてください。」とだけ言ったという。
大王は、「私がもしアレキサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい。」とだけ言った。
光を目指して生きていかなければならない者。それは青い鳥かもしれない。幻想かもしれない。
ボーッとした日輪。森羅万象の只中を歩む。





撮影 社藤 憲治
監修 加藤 嘉正




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